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オープン講座

<文化講義科・文化ラボ担当 氷川まりこ>

2018年からスタートした「オープン講座」は、青山きもの学院の在校生・卒業生だけでなくご友人やご家族、
女性だけでなく男性も、どなたでも参加していただける1回完結の講座です。
2017年に新設した「文化講義科」やその修了生による「文化ラボ」がテーマとしている室町期の芸能・芸道・文化。
さらに江戸時代にまで視野を広げて、第一線でご活躍の方を講師にお迎えしています。

第8回オープン講座

能役者・味方玄さんをお迎えして
能「定家」のお話と能装束着付け実演

開催日

2019年5月29日(水)
15:30~17:30/18:30~20:30

昨年4月からスタートした文化講義科オープン講座。
1周年の節目にお迎えするのは、 第1回の講座にご登場いただいたシテ方観世流の能役者味方玄さんです。
今回は、もっとも能らしい作品のひとつとして知られる名曲「定家」をテーマに、
能の魅力についてのお話と、能装束の着付け実演・解説をしていただきます。
「現存する世界最古の舞台芸術」である能は、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている日本を代表する芸能であり、
日本文化の美意識が凝縮されています。
なかでも能面や能装束は、江戸時代以前にさかのぼるものが実際の舞台で用いられることもあり、
美術品であると同時に実用品でもあります。能には歌舞伎やほかの演劇のような「衣装係」は存在せず、
シテ方(主人公を演じる役割)の能役者が着付けも担当します。
通常は見ることのできない着付けの様子や、能装束を間近でご覧いただき、
日本文化の豊かさを実感していただけることと思います。

場 所

青山きもの学院 青山校

住 所

東京都港区南青山5-7-17 小原流会館5階

TEL

03-3409-1051

参加費

4,320円(税込)※現金のみ

お申込方法:ご参加ご希望の方は、各校受付までお申し込みください。
お申込締切日:5月25日(土)(※締切日以降のキャンセルはできません)

過去のイベントレポート

「顔真卿(がんしんけい) 王羲之を越えた名筆」展【2019年1月17日】

上野の東京国立博物館で2019年の最初の特別展として開催されている「顔真卿 王羲之を越えた名筆」展(2019年2月24日まで)、みなさんは行かれましたか?恥ずかしながら、これまで「書」の展覧会というと、何をどう見たらいいのかいまひとつ自分のなかにピンとくるものが見つけられず、ただぼんやりと「見た」で終わっていました。小学校、中学校と、習字の授業はあったし、近所のお習字教室にも通った。大人になってからも書道教室でせっせと臨書に励んでもきた。それでも、なぜかつかみどころがない書の世界――。同じような思いや経験をお持ちの方も多いと思います。そこで、「書」に対する苦手意識をなんとか打開すべく、企画したのが今回の講座です。

好きこそものの上手なれ
「顔真卿展」初日翌日の1月17日。講師にお迎えしたのは、台東区立博物館主任研究員で東京国立博物館客員研究員でもあり、「顔真卿展」のチームの一員として展覧会をつくりあげてきた鍋島稲子(なべしまとうこ)さんです。鍋島さんが「書」を専門とする学芸員の道を選んだきっかけ、その原点はおばあさまでした。上手に書くことよりも、元気いっぱいに書いていることを褒めてもらい、幼い鍋島さんの内に「書道が好き!」という気持ちが育まれました。そして「自分も習うから一緒にはじめよう」と言って、ふたりで習字のお稽古に通いだしたのだそうです。好きこそものの上手なれ、の言葉どおり、上手に導き才能を伸ばしてくれたおばあさまのおかげで、書は鍋島さんにとって「長く続けてくることができた自分にとってのかけがえのない財産」になりました。

台東区立博物館主任研究員 鍋島稲子さん

漢字の歴史を追う壮大な展覧会
「顔真卿展」は、「漢字の歴史を追う壮大な展覧会」という鍋島さん。漢字の起源は殷(いん)時代(前17~前11世紀)に、王が占いの記録として亀の甲羅や牛の肩甲骨に刻んで用いた「甲骨文(こうこつぶん)」にさかのぼります。殷時代後期から周時代(前11世紀~前256年)には、祭祀用の青銅器に鋳込む「金文(きんぶん)」が使われるようになります。やがて紀元前220年に大きな転換期を迎えます。秦の始皇帝による国の統一です。これによって、国家の記録を残すための公式書体としての「小篆(しょうてん)」が定められました。ここまでが、いわゆる象形文字の流れをくむ「篆書」。漢字の5つの書体(篆書・隷書・草書・行書・楷書)のなかでもっとも古いものです。けれど曲線と左右対称が特徴の篆書は書くのに時間がかかったので、漢時代(前202年~220年)になると、篆書を直線化、簡略化して実用的にした「隷書(れいしょ)」が公式文字として生み出されます。さらに隷書を簡略化、連続化して、速書きに適した日常使いの文字として生まれたのが「草書(そうしょ)」であり「行書(ぎょうしょ)」で、三国時代(220~280年)に誕生して唐時代(618~907年)に完成したのが「楷書(かいしょ)」でした。この唐時代の楷書こそが、現代の書類や履歴書を書くときに求められる「丁寧な文字」のルーツです。つまり「漢字は唐時代に最大のピークに達した」のです。当時の唐の都・長安(ちょうあん)は、文化を求める人々が世界中から集まってくる、文字通り「世界一の都」でした。詩人として知られる李白がよく通っていたという飲み屋には金髪碧眼の女性スタッフが いた、とか。唐の都は、世界が憧れる国際都市だったのです。その唐の時代を代表するのが、「初唐の三大家」と呼ばれる虞世南(ぐせいなん)、欧陽詢(おうよんじゅん)、褚遂良(ちょすいりょう)でした。そして顔真卿でした。

展示会の図録と講座当日の資料

知らずに目にしている顔真卿の文字
書聖と呼ばれた王羲之は、4世紀の東晋の時代に活躍し、唐時代へとつながる楷書の元をつくりあげました。ところが、王羲之の書に耽溺した唐の第2代皇帝・太宗は、その書へ偏愛のあまり自身の王羲之コレクションを自らの墓にともに葬るようにと遺言を残したため、王羲之の肉筆は1点も残っていません。石や木に刻まれた文字やその拓本で確認できるのみなのです。ここで確認しておくべきことがあります。王羲之も初唐の三大家も、その職業は官僚だった、ということ。古い時代の中国において、三絶(さんぜつ)――詩、書、画の3つをよくすることは、文化を担う政治家にとってマストの教養でした。書聖・王羲之の書を学ぶことは後の時代の官僚たちにとっての必須課題だったのです。職業としての書家が登場するのは、近代になって以降です。それぞれの生きた時代の空気を映し、持ち味を生かしつつ、楷書の典型を完成させた三大家。彼らの活躍から100年ほど後の中唐の時代に生まれ、王羲之から三大家へとつながる書風のエキスをたっぷりとすって独自の筆法を確立した顔真卿は、まさに現代につながる書の頂点というべき存在なのです。顔真卿の文字の特徴は、迫力とわかりやすさにあります。読みやすく、書きやすく、わかりやすい。なので、古くは官僚になるための科挙試験に合格するために学ばれたお手本が顔真卿でした。現代も、中国の小学生が習字で最初に学ぶのも、街の看板で圧倒的に使われているのも、顔真卿の文字なのだとか。知らず知らずのうちに私たちは顔真卿の文字を目にしたいたのです!

「祭姪文稿」のほとばしる激情
今回の展覧会で最も注目を集めているのが、顔真卿肉筆の「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」です。この展示の前は連日長蛇の列ができています。何がすごいのか。パッと見ただけでは、あちこちに修正が加えられ、何かの下書き? という印象です。その通り。若くして命を落とした従兄の息子を悼(いた)み、あふれ出る怒りをもって供養のために書いた草稿が、この「祭姪文稿」なのです。楊貴妃を寵愛するあまり国を傾けてしまった玄宗(げんそう)皇帝の時代、安禄山(あんろくざん)を中心にした「安史(あんし)の乱(安禄山の変)」が勃発します。顔真卿はまさにこの時代に、皇帝に仕える官僚だったのです。忠誠心が強い顔真卿は、乱の平定に大きく貢献しますが、その過程で従兄とその末っ子の顔季明(がんきめい)が乱の犠牲となって無残な死を遂げたのです。はじまりは平静に書かれていますが、徐々に感情が昂ぶり、筆は勢いを増します。随所に見える推敲の跡。やりどころのない怒りと悲しみ、生々しい心の揺れが、表れています。気になるのが、ぎっしりと押されたさまざまな印。これは、この書の持ち主であった皇帝や、皇帝の許しを得て見ることができた人々が感激の証に押したもので、所蔵の証であり、いまでいえば最高ランクの「いいね!」といったところでしょうか。判子の数の多さは銘品の証です。

自分の「好き」を知ること
顔真卿の文字のように、わかりやすい鍋島さんのお話でした。ところで、大切な一族の命を賭してまで皇帝への忠を貫いた顔真卿ですが、あまりにまじめで忠臣すぎたがゆえに、かえって疎まれ、後年は左遷の嵐の人生だったといいます。その人柄と書の価値が認められたのは、10世紀の宋の時代になってのこと。感情豊かであることを美徳とした宋という時代は、迸る思いをそのまま書くことができる顔真卿を「すごい!」と評価したのです。最後に、書の展覧会を楽しむためのポイントを鍋島さんにうかがいました。どのスタイルの文字が自分の好みかを見比べる。好きと感じた作品だけを、じっくりと眺める。自分の名前に使われている字を探して、書き方を研究する。まずはそこからはじめてみてはいかがでしょうか。

<information>
特別展『顔真卿―王羲之を超えた名筆―』
2019年1月16日(水)~2月24日(日)
東京国立博物館 平成館

伊勢半本店紅ミュージアム様の「江戸化粧の再現~半元服の化粧~」【2018年10月30日】

今回講師としてお迎えしたのは、青山きもの学院の青山校から徒歩5分ほどの場所にある「伊勢半本店 紅ミュージアム」学芸員の立川 亜理沙(たつかわ ありさ)さん。伊勢半本店は、江戸時代から続く最後の紅専門店です。立川さんは、お化粧の歴史や近世以降の紅屋に関する調査・研究を専門として、江戸時代の化粧風俗や美意識、工藝をテーマにした展覧会を企画しています。

白粉を均一に伸ばしたあと、肌に半紙を当てた上から刷毛でなぞっていきます。

手ぬぐいを使って目元だけ白粉を少し落として立体感を出します。

「引き算のお化粧」
事前の打ち合わせの段階で、新田学院長からうかがった江戸化粧は「引き算のお化粧」が大きな特徴とのことでした。けれど、江戸時代のお化粧と言われて、多くの人は、「引き算」とは真逆の、いわゆる「白塗り」の厚化粧をイメージするのではないでしょうか。さらにサブタイトルの「半元服」も初めて目にする言葉です。
そうして迎えたオープン講座の日。前半は資料を使っての講義、後半は日本髪を結って黄八丈を思わせる着物を着たモデルさんに登場いただき、実際のお化粧の手順の実演です。
講義では、文献資料から「江戸時代のお化粧がどんなものだったか」を紐解いていきますが、ひとくちに「江戸」といっても、半ばまでとそれ以降とでは、記述の傾向に変化がみられるといいます。
江戸時代前期から中期までは、「白粉(おしろい)の塗り方は~であるべき」といったように、表現が観念的な「化粧観」ですが、後期になると「白粉の塗り方の手順」や「紅の塗り方」といったように、非常に具体的な記述で、ハウツー本の様相を呈してきます。なかには「鼻が低い人が高く見せるための化粧法」といったテクニックの紹介があったりもして、より美しく見せたいという女心はいつの時代も変わらないのですね。現代の美容の原点がここにある、という立川さんの言葉に、誰もが納得です。
白と黒と赤のコントラスト
現代のお化粧は肌色に近いファンデーションに、さまざまな色を用いますが、江戸時代の化粧の色は、白粉の白、鉄漿(おはぐろ)の黒、唇の紅、3つだけです。
江戸時代の白粉の主成分は鉛(なまり)で、塗るときの一番のコツは、水を加えて丁寧に解くことで、肌にのばす際にも指でゆっくり丁寧に。そうすることで、化粧崩れしにくくなり、お雛様の顔のような、ツルンとなめらかな肌感になるのだそうです。
指でしっかりとのばした後、刷毛をつかってさらに均一にのばして、ここで半紙の登場です。肌に半紙を当てた上から、再び刷毛でなぞっていくと――。あら不思議。肌の上の余分な白粉が半紙に吸着して、白粉の下からうっすらと肌色がにじむ、やわらかな肌に。なるほどこれが「引き算のお化粧」たる所以(ゆえん)だったのです! さらにTゾーンに粉白粉をポンポンとのせ、半紙で扇いで余分を飛ばし、手ぬぐいで目元だけ少し白粉を取り除くことで、微妙な立体感が生まれます。
そして、鉄漿。当時、鉄漿は既婚女性の習わしでした。さらに子供が生まれると眉を剃り、これをもって「本元服」としたのです。そこで、鉄漿だけのお化粧を、本元服の前段階という意味で「半元服」と呼んだのだそうです。半元服のお化粧では、植物の色素やロウソクの煤を用いた眉墨でアイブロウも施しました。
最後の仕上げは唇の紅。究極のポイントメイクとして、薬指にとった紅を下唇の中央にだけそっとのせます。小さい面積に鮮明な色をおくことで顔の印象がキュッとしまります。現実的には、紅花から採れる本紅は大変に貴重なものだったため大量に用いるのを控えたとも。意外なことに、この傾向は江戸時代以降も引き継がれて、唇全体に紅を塗るいまのお化粧は、第二次世界大戦以降のもの、なのだそうです。

陰翳礼讃の美しさ
夜も照明の光があふれかえる現代とは違い、江戸時代の灯りは、ほんのりと人や物を浮かび上がらせるものでした。現代の美意識で美しいとされている白く輝く歯は、そうした灯りの元ではどう映ったでしょうか。
江戸化粧が本領を発揮するのは、光と陰とがゆらめき合うなかでこそ。やわらかく“ふうわり”と浮かびあがる女性の美しさは、まさにこの国独特の陰翳礼讃の美そのものだと、江戸化粧は教えてくれました。

「江戸化粧」は、ほのかな灯りのもとで、やわらかな美しさをひきだします。

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